ローレンス・ユージン・ドビー(Lawrence Eugene Doby, 1923年12月13日 - 2003年6月18日)は、アメリカ合衆国サウスカロライナ州出身のプロ野球選手(外野手)。
来歴・人物
1942年から1944年、および1946年から1947年シーズン途中までニグロリーグ・ニューアーク・イーグルスでプレー。同年7月2日にクリーブランド・インディアンスと契約し、7月5日にMLBデビュー。同年4月15日のジャッキー・ロビンソンに次いで黒人としては2人目のMLB選手で、アメリカンリーグではドビーが初めてとなった。ニグロリーグにおける神話的大投手のサチェル・ペイジとも後にチームメイトとなっている。
1948年のワールドシリーズでは第4戦で決勝本塁打を放ち、白人のスティーブ・グローメクが勝利投手になった時、ロッカーでカメラマンから共に抱き合う姿を写したいと言われ、すんなりと応じたその写真は、当時はまだ人種間の確執があった頃だけに貴重な1枚として残っている。
1952年に本塁打王のタイトルを獲得。1954年には本塁打王と打点王のタイトルを獲得し、アメリカンリーグのMVP投票ではヨギ・ベラに次ぐ票を集めた。
1956年にシカゴ・ホワイトソックスに移籍するが、1958年にインディアンスに復帰。しかし、翌1959年にデトロイト・タイガースに移籍し、シーズン途中にホワイトソックスに移籍と、晩年は移籍を繰り返し、1959年限りで現役を引退した。
現役引退後は酒類の小売業者として働いていたが、1962年にドン・ニューカムとともに中日ドラゴンズに入団し、日本を訪れた。3年ぶりの現役復帰となり年齢的な衰えは隠せず1シーズン限りで退団したものの、元メジャーリーガーということで話題になった。
引退後はモントリオール・エクスポズ、インディアンス、ホワイトソックスのコーチを歴任し、ホワイトソックスのコーチを務めていた1978年シーズン途中にボブ・レモンに代わり、フランク・ロビンソンに次いで黒人としては2人目のMLB監督に就任した。
1994年、インディアンスが新球場ジェイコブス・フィールドをオープンした時のセレモニーにて、ドビーの在籍時の背番号『14』はインディアンスの永久欠番に指定された。
1998年、ベテランズ委員会の選考によりアメリカ野球殿堂入り。これは日本プロ野球でのプレー経験者としては史上初のことであった。また日本プロ野球でプレーした選手でアメリカ野球殿堂入りしてるのも2025年現在、彼とリッチ・ゴセージとイチローの3人のみである。
2003年6月18日、癌のためニュージャージー州モントクレアの自宅にて死去、79歳没。
詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別監督成績
- 順位は最終順位
記録
- NPB
- 初出場・初先発出場:1962年6月30日、対広島カープ12回戦(中日球場)、3番・左翼手で先発出場、3打数無安打
- 初本塁打:1962年7月8日、対阪神タイガース17回戦(中日球場)、4回裏に村山実からソロ
タイトル
- MLB
- 本塁打王:2回 (1952年、1954年)
- 打点王:1回 (1954年)
表彰
- MLB
- アメリカ野球殿堂入り(1998年)
記録
- MLB
- MLBオールスターゲーム選出:7回 (1949年 - 1955年)
- サイクルヒット:1回 (1952年6月4日、対ボストン・レッドソックス戦、フェンウェイ・パーク)
背番号
- 14 (1947年 - 1958年、1971年 - 1973年、1977年 - 1978年)
- 25 (1959年 - 同年途中)
- 32 (1959年途中 - 同年終了)
- 7 (1962年)
- 6 (1974年)
脚注
関連項目
- 中日ドラゴンズの選手一覧
外部リンク
- Baseballhalloffame.org(英語)– アメリカ野球殿堂(National Baseball Hall of Fame)による紹介
- 選手の通算成績と情報 ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)
- 監督の通算成績と情報 Baseball-reference.com
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)




