淡海乃海 水面が揺れる時』(あふみのうみ みなもがゆれるとき)は、イスラーフィールによる日本の歴史改変SF小説で、自身が転生前に過ごした世界の過去に転生し、歴史や科学の知識を元に歴史を改変していく物語。

  • 2016年3月21日、小説家になろうにて投稿を開始。
  • 2017年11月10日、TOブックスから『淡海乃海 水面が揺れる時~三英傑に嫌われた不運な男、朽木基綱の逆襲~』というタイトルで書籍化。
  • 2018年12月10日、TOブックスからコミカライズ連載開始。
  • 2020年3月25日、初の舞台『淡海乃海ー声無き者の歌をこそ聴けー』が上演。

更新状況は2019年を境に停滞しており、2019年5回、2020年1回、2024年1回の更新となっている。

概要

戦国時代の国人の跡取りとして誕生した転生者が歴史や現代の知識を使いつつ、戦国時代を平定する物語。原作は短い節毎に語り手が変わる一人称小説となっている。そのため、転生者である主人公の語り(思考)は現代人の言い回しで描かれるのに対して、他の登場人物の語りや作中の会話などは当時の言い回しで記述され区別されている。

特徴的なのは人物の呼び名で、基本的に当時の実際の使用方法に準じて名字と官位(武家官位)、あるいは官位の唐名または通称名」が使われ、現代の歴史書や小説で一般的に使われる「名字+諱」は稀にしか登場しない。主人公自身も、当初の幼名から元服後は通称名に代わり、その後は官位の授受によってその都度他者からの呼び名が変わる。

周囲から竹若丸と呼ばれる自分が後の朽木元綱(作中の元服後は綱)だと判り、当初は史実より上手く立ち回って江戸時代に十万石ぐらいの大名として存続することを目標とした。ただ、朽木元綱について知っていたのは織田信長の越前からの撤退戦(朽木越え)と関ケ原での寝返りで名前を見た程度で、それ以外は全く知らなかった(朽木”くき”の読みを”くき”だと思っていたレベル)。そのため二歳にして父を喪った後は、ただ生き延びるためだけに勝ち続けた結果、自身が天下統一の道を歩むことになる。

淡海乃海

作品タイトルとなっている淡海乃海は字のごとく「淡水の海=大きな湖」のことで、現在の琵琶湖の古称。琵琶湖#呼称も参照

淡海乃海は古事記や日本書紀に記載があり、読みは古事記に「阿布美能宇美」とあることから「あふみのうみ」とされる。主人公が転生した戦国期は一般に「あふみ」と呼称されるが、公家出身の母は万葉集から「あふみのうみ」と呼んでいる。

ちなみに、今の滋賀県に位置する近江国は「近い淡海のある国」を意味する近淡海国から、それと対比する「遠い淡海」は浜名湖を指し、今の静岡県西部に位置する遠江国は「遠い淡海のある国」を意味する遠淡海国からとなる。

羽林、乱世を翔る〜異伝 淡海乃海〜

将軍足利義藤(後の義輝)の介入により、竹若丸が朽木家を継げなかったことで分岐する物語。

叔父が朽木家当主となり、母の実家である公家(羽林家)飛鳥井家の養子(飛鳥井基綱)となった主人公は、公卿として頭角を現していく。

本編とは別に単行本とコミカライズが刊行されている。

あらすじ

竹若丸

天文十九年(1550年)十月、敗戦による父の戦死という危機的状況で二歳にして近江国高島郡の一角である朽木谷8千石を支配する朽木家当主となった主人公は、その逆境を祖父の後見と将軍足利義藤の来訪という幸運で切抜けて以降、前世知識による「富国強兵」「殖産興業」政策を進める。

天文二十二年(1553年)八月に将軍義藤が再び三好家との政争に敗れて朽木に避難、その年の暮れに三好家からの圧力を受け、翌年一月に三千の兵を揃えて威圧する三好の重鎮三好孫四郎と対面して、三好の要求を拒否する。

弘治三年(1557年)九月に後奈良天皇崩御。弘治四年(1558年)早々に御大典の儀に伴う和睦で将軍義輝(義藤より改名)が京に帰還すると、高島郡の領袖高島越中家との抗争が勃発する。永禄二年(1559年)二月、数的劣勢な中で当時の最新兵器である鉄砲の集中運用と地理的な特性を活用して高島軍を撃退、策略を併用して近江高島郡の過半(約5万石)をその手中に治める。

高島越中守を裏から嗾けていた近江の守護大名六角左京大夫は朽木を懐柔する方針に転換、主人公は六角家と浅井家の争いに巻き込まれる。永禄三年(1560年)六角方で野良田の戦いに参陣、史実における六角の敗北を覆して浅井新九郎(賢政)を討ち取る殊勲を挙る。その後は高島郡から浅井方を駆逐して伊香郡に侵攻、琵琶湖北端の塩津浜城に居を移した。

弥五郎

永禄四年(1561年)三月、左京大夫の養女との婚儀に際して、元服して弥五郎基綱と改める。

同年六月、木之本の戦いに勝利して浅井家を滅ぼす。これにより六角との関係は安定したかに思えたが、名将と評判の主人公を妬んだ六角家嫡男の右衛門督(義治)との確執が表面化する。同年九月、信濃国で武田・上杉による第四次川中島の合戦が勃発。史実と異なり、上杉方の大勝利となった。

永禄五年(1562年)四月、右衛門督主導で六角家が美濃の不破郡に侵攻、美濃一色家との抗争が長期化の様相を呈すると六角家中の不満が高まり、家督争いも絡んで右衛門督と周囲の不和が激化していった。同年暮れに将軍義輝の仲介で和睦が成立、六角は美濃から撤退して左京大夫が隠居するも家中の騒動は治まらず、永禄六年(1563年)四月、大規模なお家騒動が発生する。

畿内の有力勢力(六角)の不安定化は周囲にも伝播し、まず五月に越前の朝倉家で下剋上が発生。六月には三好家の内藤備前守が若狭から守護武田家を追い払い、六角家の影響下にあった大和北部も三好家の松永弾正忠に浸食されていった。そんな中で八月、三好の後継者三好筑前守が病没、三好家にも暗雲が漂い始める。

混乱の中で朽木への帰属を希望する坂田郡を受け入れた主人公は、東の拠点として今浜の築城に着手する。そして朝倉式部大輔が加賀一向一揆勢の対応に手一杯な状況を利用して、同年十月に敦賀を急襲して鉢伏山・木ノ芽峠に防御線を構築する。これにより日本海での交易拠点を手に入れ、日本海から近江を経由して京都に至る物流ルートを掌握する。

その間も六角の内紛は続き、同年暮れに将軍家の御扱いにより右衛門督は廃され、細川晴元の次男が輝頼と改名して六角の家督を継ぐ。事態は収束するかに思えたが、六角家臣団と新当主に付き添ってきた幕臣との間で軋轢が生じ、朽木に帰属した坂田郡を巡って主人公とも確執が生まれる。

永禄七年(1564年)七月、当時の天下人三好修理大夫が病没。三好の支配体制が揺らぎ、十二月に丹波から三好方の内藤備前守が追い払われ、続いて河内・紀伊の守護畠山修理亮が反三好で挙兵するなど、畿内を戦乱が覆っていく。こうした中で永禄八年(1565年)一月に永禄の変が起こり、長年”三好打倒”を画策していた将軍義輝が殺害され、将軍の権威を後ろ盾とした六角家はさらに弱体化していく。

一方越前では、永禄七年八月に朝倉式部大輔が一揆勢との戦いで戦死、その後一揆勢は朝倉の残存勢力を掃討しつつ翌年八月に敦賀に攻め寄せる。主人公は木ノ芽峠で一揆勢を撃退すると、九月には一揆勢の攻勢に同調した近江の本願寺勢力(堅田門徒)を制圧、介入してきた延暦寺の僧兵を撃破して比叡山焼き討ちを決行。湖西(滋賀郡)の宗門勢力を一掃すると西の拠点として坂本の築城に着手する。

永禄九年(1566年)六月、三好撤退後は守護不在の若狭を攻め取る。その遠征中に三好家が、孫六郎義継派(松永弾正忠、内藤備前守)と豊前守実休派(安宅摂津守、三好三人衆)に分裂する。

大膳大夫

永禄九年(1566年)七月、朝廷からの打診を受けて従四位下大膳大夫に叙任される。

同年八月、主君(輝頼)と険悪な関係に陥っていた舅の平井加賀守一族を朽木家に引き取る。この件で主人公と六角家は一触即発の状況になるが、義継派に擁立された将軍候補足利義秋の仲介で収まる。九月、越前攻めを開始して年内に西半分を制圧する。

永禄十年(1567年)五月に越前全域の制圧を終え、六月に義秋の策による六角・朽木・美濃一色・織田の連合による実休派打倒の上洛戦が始まる。この連合は六角と美濃一色が離反して瓦解するが、主人公は三好との合戦(第一次山科合戦)に勝利、軍を返して六角家を滅ぼす。更に越前に大挙押し寄せてきた加賀・飛騨の一向一揆勢を木ノ芽峠で殲滅(木ノ芽峠の根切り)、その余勢を駆って加賀全域を接収する。

永禄十一年(1568年)五月、越後の関東管領上杉輝虎と共同で北陸平定戦を開始。前年の大敗(木ノ芽峠の根切り)で弱体化した北陸の一向一揆を掃討、上杉・椎名軍と合流して能登を制圧する。

一方、畿内の戦乱は徐々に三好実休派の優勢に傾き、河内から紀伊へと転戦しながら抵抗していた畠山修理亮は紀伊平野部の国人衆が三好方に寝返り、紀伊山地に逼塞を余儀なくされる。だが、その直後に三好実休派が擁立していた将軍候補平島公方家足利義栄が堺で病没する(史実通り)。また織田上総介により稲葉山城が陥落し、美濃攻略が完了(美濃一色氏が滅ぶ)。

永禄十二年(1569年)二月、伊勢侵攻を開始する。事前の調略もあって長島一向一揆と南伊勢の北畠家を残して制圧。いったん軍を近江に戻して、別軍を率いて内紛が勃発した能登を制圧。八月には最初の軍を率いて伊勢に再侵攻、油断していた北畠権中納言を下して南伊勢を制圧、残るは長島一向一揆のみとなる。 同年暮れ、清水山城にて祖父の朽木民部少輔永眠。

永禄十三年(1570年)一月、居城を十年ぶりに塩津浜城から清水山城に戻す。伊勢で発生した一向一揆を六月に鎮圧。九月に再度伊勢に出陣、伊勢各地の公界を制圧して志摩を掌握、伊勢から北畠家の影響力を払拭していく。同年暮れ、朝廷から将軍宣下を受けて実休派が擁立した足利義助が第十四代将軍に就任。

永禄十四年(1571年)四月、満を持して一向宗の拠点伊勢長島を攻略、次いで五月に北畠本家(具教・具成親子など)を粛清して伊勢を完全に掌握すると、伊賀の国衆が朽木家の傘下に入る。これにより朽木領の東側は同盟国(上杉・織田)で占められ、その目は必然的に西(畿内)を向く事になる。

畿内では大和の義継派と紀伊の畠山が連携して、畿内の大半を制した実休派に抵抗を続けていた。そうした状況下でで永禄十四年(1571年)十月に上洛戦を開始、山科で実休派を撃破(第二次山科合戦)して畿内を制圧する。敗れた実休派は余力を残しつつ本拠地(阿波・讃岐・淡路)に退き、将軍義助も平島公方家に退去する。

畿内を制した主人公だったが義昭との関係は良好とは言えず、朽木軍は近江に撤収する。畿内を自派で固めた義昭だったが、朽木不在を好機と見た実休派が永禄十五年(1572年)三月に突如として急襲を仕掛けて窮地に陥る。この襲撃は坂本城から駆けつけた朽木軍により阻まれ、実休派は四国に戻る。そして摂津が朽木に与えられ、主人公は前の政所執事伊勢伊勢守を復職させて間接的に幕府の実権を掌握する。七月、南近江に築城していた八幡城(現近江八幡市)が完成、居城とする。

その後は旧知の三好孫四郎(長逸)を通じて実休派との交渉を進め、永禄十六年(1573年)二月に義昭の将軍即位(前年に義助の将軍位返上)を成し遂げる。同年六月、勅命による禁裏御料(丹波国山国庄と小野庄)奪還のため丹波に攻め入り、御料を押領していた宇津右京大夫を追い払い、北部の有力国人川勝大膳亮を傘下に加えた。その際に不穏な動きがあったとして、七月に義昭派(侍所頭人)の丹後一色左京大夫を攻め滅ぼす。

近江少将

永禄十六年(1573年)八月、御料奪還の功績により正四位下左近衛権少将(四位少将)に叙任(越階)される。

その後、丹波の反朽木派(波多野左衛門大夫、赤井悪右衛門)を滅ぼし、播磨(英賀)の一向宗に備えつつ、浄土真宗本願寺派の総本山石山本願寺への圧力を強める。元亀三年(1575年)一月、長島一向一揆の残党が恭順して石山本願寺を離脱すると、四月に5万の大軍で包囲された石山本願寺は、六月に”朝廷の御扱い”による和睦で放棄され、顕如は西国へと落ちていった。その直後、「関東管領上杉輝虎殿、中風にて倒れる」の急報が届く。輝虎は何とか一命は取り留めるが半身に麻痺が残り、急遽後継者に擁立された甥の上杉喜平次(景勝)の立場を強化するため、主人公の長女・竹姫との婚儀が決定する。

元亀四年(1576年)、5万を動員して播磨に侵攻して瞬く間に制圧するが、備前宇喜多和泉守(直家)に降伏の気配を感じると軍を収める。そして宇喜多と対立する備中の三村修理進と密かに通じるが、修理進は宇喜多に暗殺され、備中は毛利家が制圧する。それに対して主人公は山陽・山陰の両面で謀略戦を展開、諸将の毛利家への疑心暗鬼を醸成していく。

同年八月、3万を動員した竹姫の輿入れ行列が近江を発し越後に向かう中、将軍義昭が京で挙兵するが、三好の取り込みに失敗して毛利勢力圏(鞆の浦)に逃亡。主人公は将軍直轄領(山城国)や挙兵に同調した畠山修理亮の紀伊を接収、また挙兵の裏に毛利家の謀略を感じ取り、謀略戦を強化して毛利家・宇喜多家を追い詰めていく。なお松永弾正忠から申し出があり、三好家の跡継ぎ千熊丸に主人公の三女・百合姫を嫁がせることを決める。

近江中将

元亀四年(1576年)九月、従三位左近衛中将(三位中将)に叙任される。

元亀五年(1577年)一月、織田・徳川連合軍により甲斐武田家滅亡。続いて備前宇喜多家の内紛で和泉守が死亡、朽木と毛利が備前で直接対峙する。主人公が負傷する激しい攻防が続く中、八月に山陽と山陰の両面から朽木の大規模攻勢が行われ、但馬・因幡・備前を制圧する。

天正二年(1578年)四月に攻勢を再開、美作を制圧して備中に進出した主人公の下に、織田信長が「飲水の病」との報告が入る。後背の同盟国(織田家)に不安を感じた主人公は、史実に倣い備中高松城で水攻めを敢行、毛利家は史実と同じく屈服して朽木家に臣従を誓った。

亜相

天正二年(1578年)九月下旬、参議(宰相)に叙任、その十日後に権中納言(黄門)に叙任される。翌年の天正三年(1579年)二月、正三位に昇進して右近衛大将に就任。同年七月、権大納言(亜相)に叙任される。

天正三年(1579年)八月、相模北条氏の小田原城を包囲していた織田信長が戦死(享年46)。十二月、旧領回復のため北条勢が伊豆に出兵した隙を徳川に突かれて、小田原落城(北条家・今川家滅亡)

天正四年(1580年)、一月に土佐一条家で内紛が勃発する。主人公は四月に出兵して騒動の元となった一条三位少将と長宗我部宮内少輔を引退させ、それぞれの嫡男が朽木家の家臣として家を継ぐことを認める。また琉球との交易独占を目論む薩摩の島津家を牽制するため、豊前の大友宗麟と肥後の龍造寺山城守の和睦を斡旋する。朽木領の安芸で一向一揆が発生するが、明智十兵衛により鎮圧。

四国出兵中の四月、織田三介が織田三七郎を討ち、織田家の新たな当主となる。同年十月上旬、主人公の嫡男堅綱率いる朽木軍による美濃侵攻が始まり、十一月下旬に美濃制圧。越後では上杉喜平次が関東で越冬する隙を突き、徳川と連携した会津の蘆名が蒲原郡に侵攻、隠居の上杉謙信が出陣して撃退する。

前内府

天正五年(1581年)一月、従二位内大臣(内府)に補任される。

禎兆元年(1581年)四月下旬、美濃と伊勢から尾張に侵攻を開始、三河に逃げた織田三介信意は五月に岡崎城で降伏する。同年八月、嫡男堅綱に朽木家の家督と旧織田領五か国(尾張・三河・遠江・駿河・伊豆)を譲り、堅綱は朽木家当主として従四位下大膳大夫(父基綱の初官位と同じ)に叙任される。

同時期、帝の代替わり(正親町天皇から後陽成天皇)を機に薩摩に居る将軍義昭の上洛を計画するが、同年十二月に義昭は顕如に殺害され、顕如も自害する。

禎兆二年(1582年)四月、駿府に移った堅綱は上杉と共同で徳川領甲斐・諏訪に侵攻、徳川軍は岩殿城に籠城する。八月、主人公は正二位に昇進、同時に源氏長者に就任。十月、徳川軍は悪天候に乗じて岩殿城からの撤退に成功する。

禎兆三年(1583年)二月、総勢十万を超える軍勢で九州攻め(島津討伐)を開始する。五月には秋月氏を始め島津に同調した北九州の諸勢力を制圧する。そして豊後から日向へと南下を始めた朽木軍に対して島津も主力を日向に集結させたが、島津の本拠地薩摩に土佐から別動隊が奇襲上陸する。これにより島津勢は混乱、島津本隊が大隅の鹿屋城にて滅亡したのは九月であった。その後、薩摩で九州の仕置きを行っていた主人公に、阿波にて三好阿波守による足利義助殺害の報が届く。

一方、九州攻めの間も朽木堅綱による関東侵攻は進み、二月に箱根の湯坂城を攻略、その後は徳川家の忍び(元は甲州忍び)や三崎水軍など相模の国人衆が次々に離反する。徳川家は小田原城に逼塞し、その年の暮れに降伏、家康は切腹して果てる。

相国

禎兆四年(1584年)、従一位太政大臣(相国)に補任される。また堅綱が征夷大将軍に就任する。

四国では三好阿波守と十河民部大輔が細川掃部頭により滅ぼされ、淡路水軍を率いる安宅甚太郎は朽木に服属する(旧・実休派消滅)。四国の過半を制した掃部頭は朽木に同盟を呼びかけるが、七月朽木による四国出兵が開始され、十月には制圧を終える(細川阿波守護家滅亡)。

禎兆五年(1585年)五月、琉球王国からの使節団が来訪。ただ天皇の謁見は見送りとなり、朝堂院の再建を開始する。関東では相模・武蔵を抑えた堅綱が下総に侵攻する。

禎兆六年(1586年)一月、畿内から北陸・東海にかけて大規模な地震が発生、九州では「相国重傷」との虚報が流れ、それを信じた竜造寺家が大友領に攻め入る。五月、琉球からの二回目の使節団が来訪し、再建された大極殿にて天皇の謁見が実現。

同年十一月、総勢十五万を動員し、二回目の九州攻め(龍造寺討伐)を開始。同年暮れ、臼杵城で大友宗麟病死。翌年二月、肥前国太田城の戦いで龍造寺山城守死亡、三月須古城にて龍造寺太郎四郎が降伏(竜造寺家滅亡)。

禎兆八年(1588年)四月、関東・奥州に出兵する。主人公は下野から蘆名攻めを、堅綱が常陸の佐竹攻めを開始する。その最中、九州のキリシタンを支援するためイスパニアが呂宋から軍を派遣し、それを察した琉球の尚永王が人質派遣を中止した事を知る。それに対して主人公は、イスパニア領呂宋攻めと琉球の武力併合を決める。

同年九月、蘆名主計頭と佐竹義重を下して奥州の親朽木勢力は朽木に恭順する。十月、黒川城に集結した朽木・上杉の連合軍十八万が北上を開始、米沢城に集結した最上・伊達を中心とした奥州連合軍八万も南下、両軍は置賜郡笹野(笹野山の麓)で対峙する。11月、先鋒となった伊達・相馬勢は奇襲を目論むも予見され、奮闘するも壊滅、その最中に最上勢が朽木に寝返り、奥州連合は崩壊する。

冬の到来を前に、主人公は後を堅綱に任せて近江に戻る。直近の課題である琉球・イスパニア問題を進める主人公に、古くから懇意にしている商人が「敦賀と塩津浜の間に水路を」と嘆願する。これに前世知識の琵琶湖運河を思い出した主人公は、北陸だけでなく石山(大阪)や伊勢との間を含めた包括的な水路網を思い描き、引いては経済的な中心を史実通り海路による大阪にするか、琵琶湖を中心とした水路網による近江とするかの判断を大評定にかけ、大評定は水路建設の判断を下した。

登場人物

朽木家

朽木竹若丸 / 朽木基綱
本作の主人公で、通称は弥五郎。現代日本人の転生者。(作中での事績については「あらすじ」参照)
転生前の名前は不詳で、昭和生まれて50歳過ぎで転生した。転生前は”三人兄弟の末っ子”で結婚はせず、”平凡過ぎるほど平凡な一生”を過ごし”最後に何か残したい”と歴史物の小説を書こうと思い立つ。
新生児として転生した時から前世の記憶と意識があり、それ故に「赤ん坊らしさ」が全くなく母親や周囲を困惑させている。また周囲の状況や将来の展望を色々考えていたが、その間は考えに没頭して無表情・無言でいることから周囲からは「不思議な子」や「変人」扱いされる。結果的に母親の態度は他人行儀となり、後見役の祖父が付き添った事で「爺ちゃん子」に育つ。この志向は元服後に副将や相談役といった身近に老臣を置く体制に繋がる。
周囲の状況や会話から江戸時代より前の侍大将クラスの武家で場所は近江と判ったが、”くつき”から朽木にたどり着くまで時間がかかった。また朽木元網の生い立ちなどは全く知らない。そのため(史実通りだが)唐突に二歳で当主となり、とにかく「生き抜くこと」を目指して奮闘していく。
当初から三好家や六角家といった周囲の大勢力に挟まれた小勢力だったため、去就に悩む国人の立場に理解を示し、「支配下の国人に優しい」との評価を得ている。
  • 私生活
永禄四年(1561年)、元服した13歳の時に六角家から正妻(六角家の養女・小夜)を迎え、永禄十一年(1568年)に越前の氣比神宮大宮司家出身の雪乃を側室とした。その後は実家が滅んで朽木で保護した遺族の中から、辰、篠、桂、藤、夕などが側室となっている。
禎兆五年(1585年)時点で十一男十女(1人は養子)を授かる。また禎兆二年(1582年)嫡男堅綱に、禎兆五年(1585年)長女竹姫に、それぞれ嫡男(主人公の孫)が生まれている。
朽木綾
基綱の生母。飛鳥井雅綱の娘。主人公視点では美人。
夫の朽木晴綱が戦死した後も仏門には入らず、主人公と実家の飛鳥井家(を通じて朝廷)との橋渡し役を務めている。
幼い頃から明らかに通常の子供と異なる主人公に度々違和感を覚えていたが、主人公の成長と共に違和感も薄まり、主人公が側室を多く持つことに積極的。: 主人公の対朝廷政策の一部は、公家出身ということから「母親の策ではないか」との風評が朝廷内で流れる事もある。
IFルートの「羽林、乱世を翔る〜異伝 淡海乃海〜」では再婚して主人公と離れる。
朽木民部少輔稙綱
主人公の祖父。2歳で当主となった孫を支え、名実ともに後見役として主人公を助けた。
元服時に10代将軍足利義稙から偏諱を受け、12代将軍足利義晴の代に内談衆(側近)、13代足利義藤(後の義輝)の代に御供衆(親衛隊)となり、幕府内で重用された。当人も幕臣としての意識が強く、将軍家再興への思いと相反する現実に悩むこともあるが常に孫の行動を肯定的に受け止めて助力を惜しまなかった。
主人公からは「お爺い」、家中では「ご隠居様」、義藤や幕臣・他家からは官職(民部少輔)で呼ばれる。主人公が塩津浜城に移った後も清水山城に残り、永禄十二年(1569年)暮れに清水山城にて永眠。
朽木蔵人惟綱
稙綱の弟(主人公の大叔父)。朽木谷時代は支城の西山城を預かっており、主人公から硝石作りを任される。
朽木が高島郡を制すると安曇川河口の舟木城を預かり、以後も朽木谷を含む高島郡など朽木家のルーツとなるを任された一族の重鎮。天正二年(1578年)に隠居、相談役就任を断って朽木谷に隠棲した。
朽木主殿惟安
朽木蔵人の息子。父と共に高島郡・伊香郡・浅井郡を鉄砲・硝石の大産地に発展させ、主に裏方として朽木家の基盤を固めた功労者。
元亀三年(1575年)、主人公の次男松千代(元服後の次郎右衛門佐綱)の傅役を任される。ちなみに松千代が尾張に移った禎兆二年(1582年)、主人公は「いずれ主殿は戻さなければならん。五年だな、五年後には戻す事にしよう」と言っているが、作中の禎兆七年(1587年)十一月時点でも傳役として次郎右衛門に付いている様子が記載されている。
朽木主税基安
幼名梅丸。朽木主殿の息子(蔵人の孫)。
子供の頃から主人公の側仕えとして一緒に育ち、元服後は近習から公事方・兵糧方・軍略方を歴任、天正二年(1578年)の毛利攻め後は一軍を率いる指揮官として主人公と共に各地を転戦し、平時は相談役らと共に主人公の傍にいる事が多い。
禎兆六年(1586年)の九州攻め(龍造寺討伐)では第三軍を率いる主将として豊前・豊後方面を担当、禎兆七年(1588年)奥州征伐の笹野の戦いでは先手の大将を務めている。また禎兆七年(1587年)、主人公の四男万千代(元服後の四郎右衛門照綱)の元服の際に烏帽子親を務めている。
主人公とは気心が知れた「無二の仲」といってよく、親族という事もあって家中で重きをなしている。
朽木長門守藤綱
朽木左兵衛尉成綱
朽木右兵衛尉直綱
朽木左衛門尉輝孝
主人公の叔父(父の弟)。主人公が家督を継いだ時には、幕臣として京に在住していた。
朽木が大きくなるにつれ、「親族衆が弱い」と考えた主人公が朽木に呼び戻している。永禄二年(1559年)に長門守と左兵衛尉が朽木に戻り、鉄砲隊と騎馬隊を任せられる。永禄四年(1561年)に残り二人も戻り、共に兵糧方となる。毛利を下した後、備中、備後でそれぞれ五万石の領地を与えられた。
最年長の長門守藤綱は朽木一門の代表として永禄十年(1567年)に評定衆に加わり、天正二年(1578年)の世継ぎ堅綱元服では烏帽子親を務めた。

飛鳥井家

飛鳥井雅綱
主人公の外祖父(母方の祖父)。登場時は権大納言の官職にあり、主人公が元服時に官位を辞退した代わりに准大臣へと進んだ。元亀二年(1574年)に死去。
朽木家が大きくなるにつれて関係強化として二人目の正妻を勧めたり、娘の生んだ永仁皇子の将来的な東宮宣下を目論んだり、主人公からは危険視された。史実では蹴鞠の宗家として織田信秀(信長の父)や北条氏康など地方の戦国大名と交流があったが、特に作中で触れられることはない。
飛鳥井雅教
飛鳥井雅綱の息子、主人公の伯父(母の兄)。登場時は権中納言で、その後は元亀四年(1576年)権大納言、禎兆二年(1582年)准大臣となる。
弘治三年(1557年)の新帝即位の件で朽木を訪れて費用の献金を引き出すが、将軍義輝の帰京を条件として突きつけられて以降、主人公を恐れている。それもあってか関係強化のため弟の尭慧と図り、永禄十年(1567年)に尭慧の娘(雅教の姪)を主人公の正妻にしようと画策した。
主人公が足利義昭を奉じて上洛した永禄十四年(1571年)に武家伝奏を務めている。能書家として評価が高く、元亀四年(1576年)主人公の長女竹姫の嫁入り道具として誂えた屏風の件では、取りまとめ役を勤めて和歌を清書している。和歌にも長けており、細川藤孝が死亡した際には次の古今伝授候補に名が挙がっている。
目々典侍
飛鳥井雅綱の娘、主人公の叔母(母の妹)。主人公目線では、母に似た美人。
当時の後奈良天皇の皇太子方仁親王に仕る典侍。ただし、正妻の座は万里小路家出身の新大典侍(房子)である。
子に春齢女王(かすよじょうおう) と永尊皇女、(史実にない)永仁皇子がいる。これは主人公の後援により、史実より方仁親王が頻繁に訪れたことによる影響。朽木家の支援と勢力拡大により春齢女王と永尊皇女は内親王となって、それぞれ一条内基・西園寺実益に降嫁、方仁皇子は親王宣下を受けて兄が東宮として擁立されると武田宮(世襲親王家)となる。
主人公からは信頼されており、父雅綱が企てた危険な試みを防ぐために助力してくれる。またIFルートの「羽林、乱世を翔る〜異伝 淡海乃海〜」では、主人公の母親代わりの存在となる。
尭慧
浄土真宗(高田派)を率いる僧。飛鳥井雅綱の息子、主人公の伯父(母の兄)。将軍足利義晴の猶子。
本願寺派の勢力伸長と内紛が重なって衰退していた高田派の復興に尽力している。主人公の権勢を自派復興に利用しようと娘(史実では元綱の正妻)を主人公の二人目の正妻にしようとしたり、主人公の祖父(稙綱)の葬儀を自派で執り行おうしたり、主人公にとっては頭の痛くなるような提案をしている。
作中では特に言及されていないが、本願寺派が朽木と敵対して殲滅されるに伴い宗旨替えする本願寺派の寺も多く、主人公と縁のある高田派も伸長していると思われる。
曽衣
土佐一条家の家臣。出家する前は飛鳥井雅量と云い従四位下左近衛少将権中納言の官職にあった。主人公の外祖父雅綱のはとこ。
戦乱を避けて縁戚の土佐一条家に身を寄せ、御一門衆として重きをなしていた。土佐一条家の使者として主人公に謁見、援助の見返りに琉球との交易の斡旋をした。
天正四年(1580年)の土佐一条家の内紛後、主人公と土佐一条家の橋渡し役として朽木家に移る。その後、近江で逼塞していた長宗我部宮内少輔が相談役になるのに伴って、曽衣も相談役となる。
飛鳥井四位中将
西洞院右兵衛佐
主人公の外祖父雅綱の孫で主人公の従兄弟。共に細川藤孝が死亡した際に、古今伝授候補に名が挙がっている(官位はその当時のもの)。

親族衆

鯰江(なまずえ)備前守為定
近江愛知郡鯰江城の城主。妻(照)が主人公の伯母に当たるが、主人公が当主となった時期には交流も絶えていた。
永禄三年(1560年)に六角家の使者として朽木家を訪れ、主人公を野良田の戦いに誘った。その容貌から主人公の中では「ブルちゃん」と呼んでいる。
永禄九年(1566年)、舅の平井加賀守一族を朽木が引き取った際に一緒に朽木家に移り、共に親族衆となる。当初は若狭で一万石を与えられ、翌年には嫡男満介貞景の長男の左近定春が主人公の近習となっている。
永禄十六年(1573年)の丹波攻めに連動して若狭から丹後に攻め入り、丹後一色家を滅ぼす。元亀三年(1575年)、近習だった左近が兵糧方に加わる。
元亀五年(1577年)の但馬攻め(対毛利戦)に参加し、以降は山陰方面(因幡・伯耆)を担当する司令官となる。天正二年(1578年)、毛利家が臣従すると山陰で息子達がそれぞれ三万石を与えられ、一族併せて二十万石ほどの大領を得ている。また満介の三男藤五郎定興が甲斐武田家の松姫を娶って、名門武田家を継承する。
禎兆三年(1583年)の九州攻め(島津討伐)では別動隊の第二陣として息子の満介貞景、小次郎氏秀が日向に上陸、薩摩救援に向かおうとする島津本隊の足止めに成功しる武勲を上げた。
平井加賀守定武
栗太郡の有力国人で六角家の六宿老(作中では六人衆)の一人に数えられた重臣。観音寺城の曲輪の一つ「平井丸」に居館を置いていた。主人公の正妻(小夜)の実父。
主人公と縁戚になって以降も六角家中で重きをなしたが、当主が右衛門督(義治)になると忌避され、次の輝頼の代には謀殺の危険を感じるほど険悪な関係となったことで、永禄九年(1566年)朽木家に引き取られて親族衆として遇された。
永禄十五年(1572年)、三好実休派の急襲を退けた後に摂津芥川山城代となり、朽木家の飛び地となる摂津の旗頭としての大役を勤める。元亀四年(1576年)時点で、摂津で五万石が与えられている。
禎兆二年(1582年)、嫡男弥太郎高明に家督を譲り引退、主人公の相談役となる。

譜代家臣

日置五郎衛門行近
朽木家譜代の重臣。主人公には「白ゲジゲジ」と呼ばれている。
朽木の武を代表する人物で、父晴綱が戦死した敗戦では殿を務めている。主人公の初陣では鉄砲隊を率い、その後は主人公が”兵の動かし方を教わらねばどうにもならん”と副将に任命した。野良田の戦いでは”信長に仕えれば簡単に十万石ぐらい貰えそう”と戦場での読みを評された。
主君(主人公)を前にしても「言いたいことは言う」タイプで、浅井との木之本の戦いでは主人公の布陣を”余り良くありませぬな”と切り捨て、”次は気を付けよう”と言った主人公に”次が有ればでござるが”と返している。また戦場での主人公の動向を母(綾)に知らせて「母上の間者」と思われる場面もある。
永禄五年(1562年)、譜代衆の代表として評定衆に加わり、越前国平定後は旗頭として北ノ庄(五万石)に入り、以後北陸方面(越前・加賀・能登)を担当する。
天正二年(1578年)に隠居して相談役となり、天正五年(1581年)に死去。
日置左門貞忠
日置五郎衛門の息子。主人公から「黒ゲジゲジ」と呼ばれている。父と共に朽木の武を代表する人物だが、当初は「単純(一本気)」な面もあった。
父が副将として本隊を率いるのに対して、今浜城で美濃方面の備えに配された。父が越前の旗頭として配された後は、主人公の本軍に加わり、主戦場で活躍する。
父の隠居後は北ノ庄を相続するが、旗頭は先任の高野瀬備前守に引き継がれる。
宮川新次郎頼忠
朽木家譜代の重臣。初期の朽木家臣団では日置家と並ぶ家柄。「思慮深く慎重」と評価されている人物。
永禄五年(1562年)に五郎衛門と共に譜代衆の代表として評定衆に加わり、五郎衛門が越前で北を任せられたのに対して坂本城代として西の防衛を任される。
永禄十年(1567年)の上洛戦では別動隊八千を率いて六角輝頼を攻め滅ぼし、近江で五万石の所領を得る。上洛後の三好の逆襲では坂本から兵三千で京に駆けつけて将軍義昭を救出している。
天正二年(1578年)に隠居して相談役となり、天正五年(1581年)に死去。
宮川又兵衛貞頼
宮川新次郎の息子、殖産奉行。
食べ物に拘りがあり、各地の特産品を調査する傍ら名物の食べ物を堪能して、父親から苦々しく思われている。
父の隠居後は殖産奉行を兼任しながら坂本城代を引き継ぐ。
田沢又兵衛張満
朽木家譜代の重臣。特に明記されていないが、日置家や宮川家よりは家格は下と思われる。
敦賀攻略直後に木の芽峠に送られ、軍略方と共に防衛網の構築に当たる。永禄十年(1567年)の上洛戦では、越前に押し寄せた加賀一向一揆を防ぐため木の芽峠に援軍として送られた。
永禄十年(1567年)に評定衆に加わる。、禎兆三年(1583年)の九州攻めでは土佐から島津の本拠地薩摩に上陸した別動隊に加わり、島津家の本拠内城を落とした。
黒野重蔵影久
八門衆の統領。朽木家代々の譜代ではないが、まだ朽木谷を領する国人時代(主人公5歳の時)に朽木家に仕官する。
当初は存在を秘匿されていたが、将軍義輝が京に戻った後の永禄元年(1558年)に主だった家臣に知らされ、永禄十年(1567年)には評定衆に加わる。
主人公暗殺を目論む丹波村雲党との抗争に打ち勝った元亀二年(1574年)、息子の小兵衛影昌に統領の座を譲る。以後は相談役となる。
主人公は重蔵を、”五郎衛門や新次郎同様親戚みたいなもの”と表現した場面がある。
日置助五郎仲惟(鍋丸)
宮川重三郎道継(岩松)
荒川平四郎長好(寅丸)
長沼陣八郎行定(千代松)
主人公が5歳の時に側使いとなった四人。父親は全員朽木譜代で、寅丸は御倉奉行荒川平九郎長道の孫、千代松は農方奉行長沼新三郎行春の孫。
永禄四年(1561年)に主人公と共に元服して近習となり、朽木仮名目録作成作業に加わる。永禄十年(1567年)の上洛戦前に奉行衆の下に配属され、元亀三年(1575年)播磨攻めを前に揃って軍略方に登用される。

朝廷

近衛前久
五摂家のひとつ近衛家当主で、登場時は関白左大臣。
将軍義輝の母慶寿院(叔母)と妻大陽院(姉)が近衛家出身で、自身も元服時に足利義晴から偏諱を受けて「晴嗣」を名乗り、朝廷内での親足利派の代表格。朽木に避難中の将軍義藤を帰京させるため、主人公が飛鳥井家を通じて支援していた。
しかし京都を実質的に支配する三好家と組んだ元関白九条稙通が朝廷の主導権を握り、義輝が朽木に避難中の天文24年(1555年)に名を前嗣に改めた。永禄3年(1560年)に長尾景虎を頼り、越後に下向、永禄四年(1561年)主人公の婚儀には越後から出席した。
関東から戻ってきた時期は不明だが永禄の変の時には京に居て、義輝に襲撃計画を知らせて逃げる様に促している。永禄十五年(1572年)に足利義昭と組んだ二条晴良との政争に敗れ、息子明丸(後の近衛信尹)を連れて清水山城に亡命する。四国から急襲してきた三好(実休派)を駆逐した朽木軍と共に京に戻り、三千の兵を預けられて御所の警護を任された。
これ以降、主人公との協力関係が築かれ、主人公の長女・竹姫が上杉家に嫁ぐ際には近衛家の養女となり、跡継ぎ信尹に主人公の次女・鶴姫が嫁ぐなど公私にわたって強固な関係が築かれていく。
天正四年(1580年)、関白を持して太閤となり、息子信尹が内大臣となる。
一条内基
五摂家のひとつ一条家当主で、正三位権大納言。
永禄八年(1565年)に主人公の従妹にあたる春齢内親王が降嫁したことから、朽木家と縁が出来る。
永禄十四年(1571年)に分家土佐一条家が朽木に支援を求めた際には紹介状を添えている。土佐の一条兼定に起因する問題で度々登場、土佐に足を運んでいる。天正四年(1580年)には右大臣となっており、近衛前久が関白を辞した後は左大臣となる。
九条兼孝
二条昭実
鷹司信房
近衛前久の政敵だった二条晴良の子。とはいえ近衛前久とは和解しており、作中では隔意はなくなっている、。
天正四年(1580年)には九条兼孝が左大臣、二条昭実が内大臣となっている。天正五年(1581年)に断絶していた鷹司家を信房が相続する際には、事前に主人公にも了承が求められている。
近衛前久が関白を辞した後は、九条兼孝が関白、二条昭実が右大臣と繰り上がって、鷹司晴房は権大納言として名が出てくる。
葉室頼房
山科言継
朽木家と縁戚関係にある公卿。主人公の祖父稙綱の妻が葉室頼継の娘で、両者は義兄弟となる。
将軍義藤の帰京工作をしていた天文二十四年(1555年)に言継は権中納言、頼房は参議の地位にあり、稙綱が協力依頼をしている。
永禄四年(1561年)の主人公の婚儀にも参加、その後も朽木の催事(次郎右衛門の婚儀など)に名が出てくる。
西園寺実益
主人公の従妹にあたる永尊内親王が降嫁したことから、朽木家と縁が出来る。
西園寺家は摂家に次ぐ家格だが家禄が少なく、朝廷内での扱いは外様となっていた。降嫁に際して御化粧料として千五百石が付けられ、扱いも内々に改められる。
母が万里小路出身で現天皇家との関係も深く、朽木家と天皇家の関係強化のためとの側面もある。

幕府

足利義藤
足利将軍家13代当主。父義晴が細川京兆家の細川晴元と長年争い、幼い頃から近江に避難することが多く、朽木にも何度も訪れている。
長年将軍家に仕える民部少輔(稙綱)を信頼しており、自身も14歳で父を喪っているので2歳で父を亡くした主人公に同情的で、特に主人公が三好家の圧力を跳ね付けた時には感涙してる。主人公による歴史改変の影響を受けつつも、基本的には史実通りの人生を歩み、最後も三好家に御所にて攻め殺される。
主人公の富国強兵策では、まず父所縁の国友村から鉄砲鍛冶を朽木に呼び寄せ、豊後の大友義鎮から献上された火薬の秘伝書「鉄砲薬之方并調合次第」を下賜した。また主人公は「将軍のため」と称して、常陸鹿島に人を遣わして塚原卜伝の弟子を朽木に招聘、さらに各地の刀鍛冶に誘いをかけ朽木に集めている。
京に戻って以降も三好家との確執は続き、主人公が初陣で高島郡を領有して以降は対三好構想に朽木の名を出すことが増え、周囲は自然と朽木=反三好と見方をするようになった。それでも元服までは控えめだったが、元服して北近江を平定すると遠慮がなくなり、大ぴらに朽木を含めた連合軍による三好打倒を公言する様になった。
主人公は当初「義輝では?」と戸惑っていたが、幕臣の中に細川藤孝が居たため「藤孝の藤は義藤からの偏諱」と納得する。
三好修理大夫長慶
三好家当主。名実ともに当時の天下人。
三好家は曾祖父(三好之長)の代から管領細川家の内紛に乗じて四国から畿内に進出して、凄惨な覇権争いを続けるする。そのため歴代当主は皆悲惨な最後を遂げているが、その度に逆境を跳ね返して、作中初期から畿内に絶大な勢力を誇っていた。ただ周囲には幕府の名門大名(細川家や畠山家、六角家など)がまだ残っており、将軍家とも度々衝突を繰り返し、決して安定していたとは言えない状況でもあった。
主人公と直接の面識はないが、一族の三好長逸を使って朽木家取り込みを画策している。主人公の評価は非常に高く、長慶の生前に直接三好家と敵対する事はなかった。史実と同じく、嫡男義興を喪った後十河重存を養子としたが、史実とは異なり次弟三好実休が生存していたこともあって三弟安宅冬康を危険視して謀殺する事はなかった。
三好長逸
三好一族の長老。畿内進出以後、歴代当主を始め戦死が相次いだ一族にあって年長者として当主長慶を支えた。
長慶の命で主人公取り込みを図って対面した事で、以後の家中では「朽木贔屓」と言われるほど主人公を高く評価している。長慶死後に分裂した三好家にあっては実休派に加わり、将軍義輝の弑逆に加担した。
朽木の上洛戦に敗れて四国に戻り、後に将軍家の継承争いでは朽木と実休派の和睦を主導した。実休派は朽木の毛利攻めに連動して伊予を奪い取り、長逸も伊予国宇和郡で十万石を領した。しかし、大領を持った事で実休の世嗣長治の嫉妬を買い、自身の死期を悟って二人の孫(孫七郎長道、孫八郎長雅)を朽木家に託した。

同盟者

長尾景虎 / 上杉謙信
天文21年(1552年)に弾正少弼叙任のお礼言上のため上京、帰路に朽木に寄って将軍義藤に謁見した際に主人公を「稀代の軍略家」と紹介される。
永禄2年(1559年)に二度目の上洛の際にも朽木に寄り、主人公から対武田の助言を受ける。これが第四次川中島の戦いにおける大勝に繋がる。
その後は信濃の武田領を次々に奪い返し、また関東においても北条に対する優勢を確立する。
主人公が敦賀を取った永禄六年(1563年)以降は交易面でも繋がりを持つようになり、永禄十一年(1568年)に越中・飛騨・能登を共同で平定し、越中と飛騨を勢力圏に加えた。
元亀三年(1575年)脳卒中で倒れるが、史実より早かった影響か一命は取り留める。ただ半身に麻痺が残ったため、家督を甥上杉景勝に譲る。隠居後は後継者の後ろ盾となっていたが、天正四年(1580年)十一月景勝が関東に出陣して不在の際に会津の蘆名左京亮(盛隆)が越後に侵攻した時には自ら出陣して迎撃戦を指揮した。
上杉景勝
上杉謙信の甥(姉の子)で、脳卒中で倒れた謙信の後継者となった。
ただ生家(上田長尾家)の悪評は史実通りで、まずは陣代として謙信の跡を継いだ。また立場を強化するため、まだ7歳だった主人公の長女竹姫が景勝に嫁ぐことが決められ、後に主人公の嫡男に景勝の妹が嫁ぎ、両家は二重の婚姻関係で強く結ばれることになる。また織田家にも世嗣信忠に景勝の妹が嫁ぎ、同盟を結ぶ三家の婚姻関係では中核となる。
主人公は史実の関ケ原で敗れた後も上杉家が存続した事を評価し、婚姻相手として「悪くない」と思っている。
織田信長
美濃攻めのため、当初は美濃と隣接していた六角家と同盟を結ぶ(史実では浅井家)。この時に信長の妹(お市の方)と六角家の世嗣義治の縁組の話があったが、六角家の内情が不安定化したため立ち消えとなる。後に坂田郡を併合して美濃と接する事になった朽木と同盟を結んだ。
信長は永禄3年(1560年)の桶狭間の戦い以後、史実と同じように三河の松平元康と同盟して美濃攻略を目指したが、史実より美濃攻めに苦戦する(周囲への影響の項を参照)。
永禄十一年(1568年)に稲葉山城を落とした時点で三河の一向一揆は未だに終息しておらず、今川家も勢力を盛り返してきており、進む先は東海道筋(三河・遠江・駿河)となった。
徳川家康
三河一向一揆の勃発までは史実通り。しかし、一揆の早期鎮圧(史実では1563~1564年の半年間))に失敗して泥沼の戦いの末に内紛が起き、正妻(築山殿)と嫡男(信康)を粛清して織田家から嫁(お市の方)を取るなど、同盟関係から従属関係に落ちる。朽木とは直接同盟したわけではないが、互いに同盟者(織田信長)の同盟者という関係で、織田信長の生前は友好関係にあった。
この三河での一向一揆の強盛は武田晴信が顕如(妻が姉妹)を動かして、史実より強力にそして積極的に長島から支援させた事が原因となる(周囲への影響の項を参照)。史実より時間を稼いだ今川氏真は領内の家臣団を掌握することに成功、逆に三河に影響力を再浸透させて織田・徳川と対峙する事になる。
織田家と共に武田家を滅ぼし、信長の意向で三河から甲斐+諏訪に国替えとなる。小田原攻めでの信長の戦死については当初から家康の関与が疑われ、主人公も強く警戒していた。北条家を滅ぼして小田原城を居城としたが、織田家を滅ぼした朽木との同盟は拒否され、禎兆元年(1581年)甲斐・諏訪を奪われる。
その後も降伏を申し出るが拒絶され、禎兆三年(1583年)暮れに小田原城を明け渡して切腹する事で、嫡男小太郎が朽木家臣として家の存続を許される。

旧六角家臣

高野瀬備前守(秀隆)
愛知郡肥田城主。浅井家に寝返って永禄三年(1560年)の野良田の戦いを引き起こしたが敗戦で降伏、一命は赦されて追放された。
同年暮れに朽木家に仕官、敦賀攻略後に防衛線(鉢伏山、木の芽峠)に田沢又兵衛と共に送られる。越前平定後は越前に配され、永禄十年(1567年)に3万石の所領を与えられる越前の旗頭だった五郎衛門の引退で旗頭となる。
外様の中では最も早く仕官した一人。
蒲生下野守(定秀)
六角家の重臣で、六人衆の一人。蒲生郡の有力国人で、支配地日野は塗り物の産地としられ、その点で朽木とはライバル関係にある。
甲賀の三雲対馬守と共に義治に近い反朽木派と見做され、観音寺城に居られなくなった義治を日野城に保護した。そのため、輝頼が家督を継ぐと排除される様に隠居する。
六角家が滅んだ後に主人公から呼び出されて相談役に就任、長く傍に侍る様になった。名門で大領を支配した六角家重臣として周辺国の状況や有力大名家の来歴に通しており、主人公から”頼もしいぞ”を思われることも。主人公の前世知識では「蒲生氏郷の祖父」という認識で、その事績等は知らなかったが油断できない老獪な人物と認識している。
三雲対馬守(定持)
六角家の重臣で、六人衆の一人。甲賀郡の有力国人で、六角家の情報担当というべき存在。
六角家では蒲生下野守と共に義治に近い反朽木派と見做されていた。六角家が滅んだ後も朽木に靡かず、大和の松永弾正の傘下となる。これは朽木の忍び(八門衆)の存在が大きく、他の忍び衆の下に付くことを嫌ったためと言われている。

旧浅井家臣

井口越前守(経親)
雨森弥兵衛(清貞)
安養寺三郎左衛門尉(経世)
永禄五年(1562年)、最初の評定衆として旧浅井家家臣(外様)から任命された三人。
井口越前守は野良田の戦いで戦死した浅井新九郎(賢政)の伯父(母の兄)で、湖北四家に数えられた伊香郡・浅井郡北部に影響力を持つ有力国人。
戦国大名へと脱皮しようとした浅井下野守(久政)により勢力を削られて不満が溜まっており、血の繋がる新九郎が戦死した事で浅井家に見切りをつけて朽木に内応した。浅井軍が木之本で朽木と対峙している隙に、小谷城を乗っ取る殊勲を挙げる。
朽木家が加賀を制圧すると、加賀に配され旗頭となる。越中攻めの時に、主人公から情報収集力の高さを評価されている。禎兆八年(1588年)の佐渡攻めでは大将を務めている。
雨森弥兵衛も湖北四家に数えられた伊香郡の有力国人で、安養寺三郎左衛門尉は浅井郡の有力国人。共に内応者として名が無いので、小谷落城後に朽木に臣従したと思われる。

その他

竹中半兵衛(重治)
美濃の国人。永禄五年(1562年)の六角家による不破郡侵攻により菩提山城から退去、家督を弟に譲った後に朽木に仕官する。主人公はおっとりした性格から「上品な御坊ちゃん」と評した。
同時期に仕官した明智十兵衛・沼田上野之助と共に軍略方と活躍したが、史実から体調を気にした主人公は永禄十四年(1571年)に嫡男竹若丸の傅役に任命した。
後に堅綱が語った話によると、主人公が永禄四年(1561年)に作成した「朽木仮名目録」を見て朽木に仕官を決めた。
明智十兵衛(光秀)
永禄五年(1562年)に朽木に仕官して初代軍略方に任命される。史実と同じく朝倉家に仕えていたが、朽木に移った。
主人公は「イケメン」と冠しており、当初は見た目から本能寺の変を起こすとは信じられないと思ったが、後に「馬鹿が嫌いで我慢出来ないタイプ」と評した。
永禄十四年(1571年)に引退した真田幸隆に代わって三代目の副将となる。対毛利戦では山陽道を担当、毛利が下った後は安芸に配されて、新たに比治山城を築いて居城とした。九州攻めでは主人公とは別軍を率い、二回目(竜造寺討伐)は主人公より多くの兵力(第一軍)を指揮した。
沼田上野之助(祐光)
若狭の国人。永禄五年(1562年)に朽木に仕官して初代軍略方に任命される。以前は若狭武田家に仕えていたが、武田治部少輔の不安定な治世に嫌気がさして朽木に仕官した。
初期の軍略方では最年少で、主人公は「生真面目な秀才君」と評した。他の二人が役を転じて以降も軍略方に残ったが、禎兆二年(1582年)に名古屋築城に加わり、禎兆五年(1585年)の四国攻めで伊予に所領を得た。
真田弾正忠
芦田四郎左衛門
室賀甚七郎
甲斐武田家に仕えていた信濃の国人衆。武田が甲斐・諏訪に逼塞したことで旧領奪回を諦め、永禄七年(1564年)に致仕して朽木に仕える。
真田氏は小県郡、芦田氏は佐久郡、室賀氏は埴科郡をルーツとする(東信地方)の国人で、主人公は真田はもちろん芦田も前世知識で知っており、それぞれ大吉・中吉に例えた。
真田は領有したばかりの敦賀(金ヶ崎城)に配され、芦田・室賀は敦賀防衛線の木の芽峠に送られて個々に砦を一つ(兵五百、鉄砲五十丁)を預けられた。この厚遇は甲斐にも伝わり、残っていた信濃衆(相木市兵衛頼房、小泉宗三郎重成など)が続くことになった。
真田弾正忠は永禄九年(1566年)の越前攻めから二代目副将(禄は二万石)となり、引退後は伊勢で5万石の所領を得た。芦田と室賀は越前平定後に越前に配され、永禄十年(1567年)にそれぞれ3万石の所領を与えられる。
また真田家の場合、次男徳次郎と三男源五郎も別家(五千石と二千石)を許され、後にそれぞれ九州や四国で所領を得ている。
真田源五郎
芦田源十郎
長左兵衛
長九郎左衛門
永禄十四年(1571年)に任命された軍略方。竹中半兵衛と明智十兵衛が抜けた事の対応。
真田源五郎は副将になった真田弾正忠の三男。芦田源十郎は芦田四郎左衛門の嫡男。共に信濃に源流を持つ。
長左兵衛と長九郎左衛門は能登を制圧した時に切腹した長対馬守の子。対馬守が切腹する際に、残された一族の庇護を主人公に求めて受け入れられている。
実際の功績などもあるが、基本的に主人公の前世知識が抜擢の基になる人事と言える。
増田仁右衛門
山内次郎右衛門
建部与八郎
石田藤左衛門
永禄十四年(1571年)に任命された兵糧方。軍略方の補強のついでに行われた人事。
増田仁右衛門と山内次郎右衛門は仕官したばかりだが、前世知識で増田が「豊臣五奉行」と知っており、山内も兄山内一豊と一緒に取り立てた。
建部与八郎は旧六角家臣で、自ら”土木工事が大好き”と申告して抜擢された。石田藤左衛門は旧浅井家臣で、朽木家では敦賀の専売所での実績から栄転となった。
建部与八郎については知らなかったが、後の三人は軍略方と同じく主人公の前世知識が抜擢の基になる人事と言える。

改変

主人公は前世で歴史改変物の小説執筆を考えており、二歳で当主となると後見の祖父を通して、その際に考案した施策を使って領内改革に着手する。祖父に”何をするつもりじゃ?”と問われた主人公は、富国強兵・殖産興業・所得倍増を挙げた。

また朽木家が拡大するにしたがって、単に領内を豊かにするだけではなく、日本全体の統治体制や舵取りを考えるようになり、周辺国(琉球、明、朝鮮)やアジアに進出した欧州列強(キリスト教)との外交も主要な課題となっていった。

朽木谷

殖産興業
領民に種を配布して、換金性の高い綿花の栽培を奨励する。当時国内生産は少なく、多くを輸入に頼っていた綿は需要が高かった。また石鹸の製法を領民に教え、菜種油や綿花栽培の副産物(綿実油)を使って石鹸生産も奨励する。
他に朽木家の家業として、澄み酒の醸造と椎茸栽培を始める。当時の日本酒はまだ濁り酒が主流であり、椎茸の栽培技術は無かった。
また澄み酒の普及により、朽木領の木地師や塗師による多彩な色彩を施した木製の酒杯(濁り酒では模様が見えにくい)も人気となり、主要産地の一つに成長するなど、波及効果も見られた。
領地経営
税制は、税率を四公六民に軽減し、納税は米から銭に転換する。また関を廃して、楽市楽座を宣言する。
この税制と換金産物の生産により領内に銭が浸透し始め、旧来の米本位制から貨幣経済に切り替わっていく。
なお楽市楽座は、豊かになったとはいえ朽木領程度では効果が出るほどの経済規模は無く、関の廃止と併せて商人たちから「朽木は商売がしやすい」と高評価された事の方が大きい。ただ、領地が広がるにつれて、楽市楽座も効果を発揮していく事になる。

これら施策の成功は、朽木が山間地とはいえ大消費地の京都に直結する街道沿いで、昔から多くの商人が行きかう地理的な好条件下に位置していたことが大きい。朽木家も街道を行き来する若狭の商人達と繋がりがあり、関所の廃止もあって良好な関係性を深めていく。

軍事関連
将軍義藤に頼んで、近江国友村から鉄砲鍛冶を呼び寄せる。
当時すでに鉄砲の産地として知られた国友であったが、その起源は義藤の実父で第11代将軍の足利義晴が見本となる銃を渡して製造を命じたことによる。その経緯もあって製法を門外不出と定めていた国友村も依頼を断れず、移住した鉄砲鍛冶から朽木の鉄砲生産が始まった。
早くも天文二十二年(1553年)には年産20丁を数え、主人公の初陣となった永禄二年(1559年)の戦いでは、総勢300の朽木勢の中で、鉄砲隊は200と過半を占めた。
将軍ブランドを使った策は続き、周囲の刀鍛冶に”将軍の為の刀を打ってみないか?”と勧誘をかけ、若狭・美濃・伊勢から複数の流派(来派、相州、美濃、千子村正)の刀鍛冶が朽木に移住して、それらが融合して後に朽木物と呼ばれる刀の産地となる。
また、義藤(義輝)が後世「剣豪将軍」と呼ばれていたことを思い出し、天文二十三年(1554年)鹿島から将軍指南として塚原卜伝の弟子を招聘する。指南を受けるのは将軍だけではなく、朽木家にも道場を設えて将兵の鍛錬に寄与させた。
同時期、大叔父朽木惟綱が預かる支城の西山城で極秘に硝石生産を始め、火薬の生産に着手する。この朽木領での火薬生産は後々まで秘匿された。
資金に余裕が出来ると徐々に傭い兵(銭で雇った兵)を増やし、兵農分離を進めている。初陣(8千石)時の動員数は300で、武士(一族郎党)50に対して傭い兵250で編成された。

国内・組織

税制(四公六民、銭による納付)や関の廃止・楽市楽座は後々まで堅持され、綿花と石鹸の奨励は北陸や伊勢に伸張した時期までは言及がある。 鉄砲生産は国友や堺などと並ぶ一大生産地に発展している。また硝石生産も順次増強していったと思われ、一回目の九州攻めの時期には高島郡・伊香郡・浅井郡といった北近江一帯が生産地となっており、朽木家の本拠地での生産に制限されている模様。朽木家の家業(清酒、椎茸)については戦国大名として認知され始めた時期以降は触れられておらず、これも近江が中心と思われる。

八門衆
主人公が使う忍者組織。名称は朽木家に仕官した際に、主人公が命名した。
元は源平合戦の時代に九郎判官に仕えた、黒野慈現坊など鞍馬山に集まった”羽黒の山伏”達の末裔。義経滅亡後は上方に逃れ、承久の乱で上皇方に付いて敗北。その後は丹波山中に隠れ住んで建武の新政の前後は足利方に付いたが、高師直・師泰兄弟の滅亡に連座、そのまま雌伏の時を過ごしていた。
同じ山の民の木地師などから主人公の噂(領内改革など)を伝え聞き、天文二十三年(1554年)七月、統領の黒野重蔵影久が自ら主人公と接触して売り込む。この時”くらま流忍者百五十名、一族総勢四百名”と申告している(当時八千石の朽木の動員力は約300)。
実働部隊は十の組に分かれ、情報収集に長けており、調略や他国領内で流言飛語を広めるなど謀略戦にも活躍する。戦場で大将首を狙うなどの描写は無く、直接的な戦闘力に秀でている印象は薄いが、後に主人公の暗殺を狙う丹波忍び(村雲党)との戦いでは激烈な抗争に打ち勝っている。
拠点は仕官後も丹波山中のままであったが、丹波の波多野氏(配下の村雲党)との戦いが予想され始めた永禄十四年(1571年)、朽木谷に近い近江三国岳の麓に移動した。
朽木仮名目録
永禄四年(1561年)浅井家を滅ぼして北近江を制した後に、領内支配の根本として分国法を定める。
基にしたのは今川仮名目録で、時代に合わせて調整されたもののほぼ同じ内容で、守護不入を否定している。
初期の領土拡張時に朽木に仕官した有為な人材(初期の軍略方・兵糧方など)の中には、竹中半兵衛(重治)の様にこの目録を見て朽木への仕官を決めた人物もいる。
副将
主人公の初陣は元服前の11歳であり、対浅井戦が本格化すると譜代の日置五郎衛門(行近)が副将として付き添った。これ以降、朽木家では副将を置くことが恒常化した。
浅井攻めから若狭までは五郎衛門が副将を勤め、永禄九年(1566年)の越前攻めでは五郎衛門が六角への抑えとして清水山城に詰め、代わりに金ヶ崎城に居た真田弾正忠が付き添った。
永禄十四年(1571年)の第二次山科合戦から、弾正忠が引退して元軍略方の明智十兵衛(光秀)が務めている。十兵衛が対毛利攻めを担当した頃から置かれていない。
軍略方・兵糧方
軍略方は主に対外戦の作戦立案を行う役職で、築城も担当する。最初は明智十兵衛、竹中半兵衛、沼田上野之助(祐光)が務めた。
兵糧方は主に後方支援であるが、事前の見積から実際の物資集積と輸送を担当しており、旧来の荷駄奉行(補給品の輸送担当)とは一線を画す重職となる。後に領内の街道整備を担当する事になり、重要性が増していった。最初は京から戻った伯父の朽木右兵衛尉(直綱)と左衛門尉(輝孝)が勤め、翌年には近習だった(山口教継の庶子)山口新太郎(教高)と山内伊右衛門(一豊)が加わる。
評定衆
朽木家の政策方針や家臣間の紛争など話し合う評定に参加する役職。評定には奉行衆も参加、大評定では軍略方・兵糧方も参加する。
親族・譜代・外様からそれぞれ選ばれる。新規に制圧した地方(六角家や織田家など)から加わえることで、その地方の国人達の窓口になる事が多い。
奉行衆
主に朽木家譜代の家臣が就任する役職。御倉奉行・公事奉行・殖産奉行・農方奉行などがある。
御倉は財政、公事は行政や司法、殖産は産業振興、農方は農政、を担当する。
相談役
六角家の反朽木派として知られた蒲生下野守が引退した際に、相談役として登用したのが嚆矢となる。
主人公は「無理に隠居なんてさせると悪巧みしかねん。表に出して使った方が安全」と言っている。似た事例としては、主人公によって野心を潰され隠居させられた長宗我部宮内少輔も相談役となっている。
他は主人公に近い者(八門の黒野重蔵、舅の平井加賀守、元副将の真田弾正忠など)が引退した後に相談役となっている。また、飛鳥井曽衣は対立していた長宗我部の登用に併せて、三好家に仕えていた松永兄弟は義継の子が成長した事で、それぞれ相談役となった。
海上交易
永禄六年(1563年)に日本海側の敦賀を得ると、海上交易に乗り出す。越後の長尾景虎とは将軍が朽木に居た天文二十二年(1553年)に会って以降、友好な関係を持続していたため越後から蝦夷地方面に交易船を出している。後に若狭の小浜港も加わり、朝鮮や明の船(私貿易船)を呼び寄せている。
太平洋側の伊勢・志摩を領すると、土佐を経由した琉球との交易を始める。これは京都の一条家が、土佐の分家を支援してもらうための交換条件として持ってきた話。これ以降、土佐の情勢は朽木にとって特別な意味を持つことになった。
大砲
永禄十年(1567年)にポルトガル商人から、カルバリン砲とセーカー砲を各3門購入。同年六月の第一次山科合戦で、各2門を実戦投入する。
残り1門を使って模倣生産を開始。元亀四年(1576年)の播磨攻略戦では「大筒を百二十門」を揃えて一向宗の拠点英賀を集中攻撃、大筒のみで城の構えを破壊している。
ただし、国内の複雑な地形から運搬には多大な労力を要し、意外と活躍する場面は少ない。
南蛮船
永禄十一年(1568年)に小浜で最初の南蛮船を建造している。後に志摩でも九鬼孫次郎が建造を始める。主に若狭と九鬼の水軍が運用し、他国の水軍を圧倒する。
形式等の詳細は不詳であるが、当時の状況からキャラック船(ナウ船)の一種と想定される。
入手先も不詳だが、時期的にはカルバリン砲やセーカー砲と一緒にポルトガル人から購入したと思われる。
街道整備
領内の関を廃して楽市楽座を実施するなど、領内経済の振興を重視していた主人公だが、街道整備に本腰を入れるのは意外と遅く永禄十二年(1569年)となった。
この年、伊勢侵攻を計画していたが、近江から伊勢への街道は急峻な地形から進軍・補給が容易ではなく、そうした中で家臣からの進言を受け入れ、領内の街道整備に着手する。
まずは近江と敦賀間で始まり、伊勢を制圧した後は近江伊勢間が加わり、領地が拡大するとともに整備する街道も拡大を続けた。
この大規模な街道整備は後方支援を担当する兵糧方の担当とされ、兵糧方は単なる補給・支援役ではなく膨大な予算と人員を扱う主要職として認められていく。
相国府
太政大臣(相国)となった主人公が主催する政の府。
鎌倉以来の幕府体制に代わる武家の府として、主人公がたどり着いた体制。また将軍職は朽木家の世継ぎを示す職と定める。
主人公は、将軍職が令外官(律令制に含まれない不正規の官職)であることから、新たな幕府を開くことには消極的な考えを持っており、既存の公家社会と干渉せずに並立出来る体制を模索していた。
その中で、太政官(律令制による正規の官職)の最高職である太政大臣の地位が多くの場合で空いていることに着目し、昵懇であった摂家の近衛前久らと話し合いを重ねて決断した。

国外

琉球
土佐を経由した交易は伊勢長島を攻略する前(永禄十四年-1571年-)に土佐一条家から支援の見返りとして話があり、土佐一条家ではそれ以前から行われていた。朽木が実際にいつから交易に加わったかは不明ながら、一時期は琉球との交易を独占しようとする薩摩の島津家と朽木家の争点ともなった。
島津を下した後は主人公から日本帰属を誘われるようになり、使節団を派遣している。当時の琉球では明の政策変更によって中継貿易が衰退する状況で日本との交易が重要度を増し、また明の情勢(万暦帝による治世)への危惧から、”日本に帰属する”提案は受け入れられつつあった。
しかし、禎兆八年(1588年)ルソンからイスパニア軍が派遣された事を察知すると予定された人質派遣を見送るなど”日和見”したため、ルソン侵攻を視野に入れた主人公は武力併合を決める。
史実では慶長14年(1609年)に島津家による武力侵攻を受けて属国化されたが、本作中では朽木家による武力侵攻の可能性が高まっている。
朝鮮
儒教に基づく統治体制から一種の鎖国政策を実施し、他国との交易を制限している。
主人公は前世知識から豊臣秀吉のような武力侵攻は考えていないが、対馬の宗氏が朝鮮に従属の形をとって交易している事は問題視した。ただ禁止しただけでは解決しない事も理解しており、2回目の九州攻めの後に宗氏を筑後に移封して対馬を朽木家直轄地とした。
西笑承兌や景轍玄蘇、宗氏の旧家臣(柳川権之助、柚谷半九郎康広)など対朝鮮交渉に通じていた者を登用して交易再開を模索している段階で、宗氏との関係が切れたこと以外は改変による影響はまだ小さい。
この当時は悪名高い万暦帝の治世で、下海通蕃の禁は一部解除されているが、日本との交易はまだ禁止されている。
いまだ直接的な接触は行われておらず、主人公は明の冊封体制下にある琉球や朝鮮から間接的に関係を持つ事を考えており、自身が「日本国王」として冊封体制下に入ることには否定的。
綿や硝石の国産化により日本から流出する銀の量が減った事で、イスパニアやポルトガルの商人を経由して明に流れる銀の量も減ったと思われ、さらに日本との武力衝突の有無などにより影響が今後現れてくると思われる。
イスパニア(呂宋)
スペインのこと。永禄十三年(1570年)頃に、呂宋などフィリピンを領有して植民地化した。
日本で布教するイエズス会の事実上の後ろ盾であるが、かといってポルトガル系のイエズス会と仲が良い訳でもない。
禎兆八年(1588年)、イエズス会の要請で史実には無かったイスパニア兵と船を、キリシタン一揆支援のため長崎に派遣した。この一揆は直ぐに鎮圧されイスパニア兵と船は撃破されるが、この件で主人公は呂宋侵攻を現実的に考えるようになり、改変の影響が出始めている。
澳門(マカオ)
弘治3(1557)年にポルトガル王国の居留地になった明の街。
奥州出兵前の禎兆八年(1588年)三月に中国人商人(後期倭寇)から聞いた情報によれば、日本人奴隷の一部が居るとのこと。その直前に「全ての日本人奴隷を日本に連れ戻せ」と宣教師達に命じていたが、この情報によって今後どの様な行動をとるかはまだ不明。ちなみに澳門を武力で攻めた場合は、明と戦争状態になる可能性がある。

周囲への影響

主人公の史実と異なる行動は周囲に波及的な影響を与え、史実と異なる状況が形作られていった。以下に主な物を挙げる。

野良田の戦いの影響
史実では敗北した六角は、浅井を牽制するため美濃一色と協力関係になるが、作中では勝利して翌年に浅井が滅び、美濃と接する坂田郡を手に入れる。そして右衛門督義治の功名心に縁戚土岐美濃守・左馬助親子の要請(大義名分)もあって、永禄五年(1562年)四月に美濃に侵攻する。
この侵攻の矢面に立たされたのが、不破郡の菩提山城に居た竹中半兵衛であった。元々斎藤道三方だったため一色龍興に疎まれていたが、そこに六角配下の甲賀衆による謀略が加わり援軍を得られず、孤立無援の中で大野郡大御堂城に退去する。そして竹中家存続のため、家督を弟の久作(重矩)に譲って浪々の身となる(後、朽木家に仕官)。その後奪還に動いた一色家との不破郡を巡る抗争は和睦まで約一年に渡って続き、六角を弱体化させると共に家督相続が絡んでお家騒動に発展していく。
また六角だけでなく美濃と尾張(織田信長)の抗争にも影響を与え、竹中半兵衛の出奔により永禄7年(1564年)2月の稲葉山城奪取は起きず、史実より弱体化しなかった龍興の抵抗により、信長による美濃併合は約一年ほど遅れ、稲葉山城が落ちたのは永禄十一年(1568年)十一月となった。(美濃平定の遅れには、三河一向一揆の長期化も影響した)
第四次川中島合戦
この合戦の二年前、永禄二年(1559年)四月に長尾景虎は関東管領・従四位下近衛少将就任に伴い上洛、帰路に清水山城に寄って主人公から「死生命無く、死中生有り」との助言を受ける。翌年、関東管領上杉家を継承して関東に出陣、その翌年の永禄4年(1561年)に、史実通りに武田晴信と川中島で激突する。
上杉景虎は総勢1万5千を率いて妻女山に布陣、その全軍を持って川中島の武田本陣へ突入した。史実では1万3千を率いて妻女山に布陣、武田の別動隊への備えを残して、凡そ一万余りで川中島へと攻め込む。
結果として史実の1.5倍ほどでの強襲となり、武田晴信は重傷を負い周囲は戦死と錯覚する。それにより武田軍は全面的な潰走となり、多くの有力諸将が戦死した。この大敗で、それまで武田優勢で進んでいた北信濃侵攻は完全に頓挫、以後の武田は上杉方の攻勢に晒されて、最終的に諏訪を残して信濃から駆逐されてしまう(武田晴信は2年後に死去、勝頼が信頼と改名して後を継ぐ)。
この影響は周辺国に波及、甲相駿三国同盟はより防衛的な相互依存を強め、弱体化した武田は対上杉で北条との連携を強化、永禄三年(1560年)の桶狭間の大敗で弱体化した今川への支援も積極的に行う。武田からの要請を受けた石山本願寺は、伊勢長島一向一揆を通じて三河の一向宗を支援。史実では永禄六年(1563年)に始まり約半年で終息した三河一向一揆は長期化(完全鎮圧は永禄十三年-1570年-)し、その間に体制を整えた今川による三河への浸透もあって自立を目指した松平元康(徳川家康)による三河統一は頓挫した。また美濃を攻略した織田信長も苦戦する徳川を放置できず、勢力伸長の矛先を東海道に定め、主人公の伊勢侵攻を快諾した。
畠山高政の挙兵
史実では永禄四年(1561年)四月に三好長慶の弟十河一存が病死すると、河内・紀伊の守護畠山高政が近江の守護六角義賢を誘って三好に対して挙兵している。作中でも同時期に畠山から六角に打診があったが、主人公から浅井の背後にいた朝倉の事や若狭の状況などを知らされた義賢は、当面は浅井・朝倉対策に専念する事を決めて誘いを断った。これにより畠山の挙兵もいったんは見送られ、挙兵はその四年後の(三好長慶の死亡、永禄の変の後)永禄八年(1565年)となった。
この影響は畿内、特に三好氏家に大きく作用し、史実では永禄五年(1562年)久米田の戦いで戦死した三好実休が生存、晩年の長慶が安宅冬康を謀殺することも無かった。また内藤宗勝が丹波で敗れはしたものの生き延びるなど、長慶以後の三好勢力は史実より強固な勢力を維持する。有力者が複数生存した事で、その後の分裂劇も史実とは異なる経緯を辿っていく。
他に第十四代将軍にも影響する。史実通りに三好家(実休派)に擁立された足利義栄であったが、畠山との戦いで三好優勢が確立した永禄十一年(1568年)に史実通りに死去し、将軍となったのは弟の義助となった。また六角軍が京を占拠した影響で失脚(挙兵して戦死)した幕府政所執事の伊勢貞孝も生存し、後に主人公に仕えて朝廷との折衝役として重用される。

用語

朽木谷
近江高島郡(現在の高島市)に属し、安曇川上流にある丹波高地東端の花折断層と比良山地に挟まれた谷底にある小盆地。
若狭の小浜から京都に通じる山間の谷を走る街道(鯖街道)に位置しており、昔から京都・若狭と繋がりがある。また高島郡の中心地は琵琶湖の湖畔にあり、朽木谷とは安曇川沿いの険しい谷道によって繋がる。そのため京都と直結していながら、周囲に対しては天然の要害の地となっている。
朽木氏
朽木家は、鎌倉時代から代々朽木谷を領有する豪族。
近江でも琵琶湖周辺からやや隔離された地理的な要因と、佐々木源氏の庶流高島氏に属する事から、近江の守護勢力(六角氏、京極氏)とは距離を置き、六角氏に属している時期もあるが独立心が強い家である。
代々将軍の偏諱を受けるのが慣例化しており、曾祖父信濃守材秀は第10代将軍足利義材(後の義稙)から、祖父民部少輔稙綱も同じ足利義稙から、父の宮内少輔晴綱は第12代将軍足利義晴から、伯父の長門守藤綱と左衛門尉輝孝は第13代将軍足利義藤(後の義輝)から偏諱を受けている。
また正妻を公家から迎える事も多く、高祖父貞綱は甘露寺家(幕府政所執事伊勢家の養女)、材秀は不明だが、続く稙綱は葉室家、晴綱が飛鳥井家となっている。
将軍家との関係は、(第11代将軍)足利義維との抗争に敗れた足利義晴を朽木谷に保護し、大永8年(享禄元年、1528年)から享禄4年(1531年)の2年半は朽木谷に幕府が置かれたほどで、稙綱は奉公衆から内談衆に加わり、特に幕府直臣としての意識が強い人物となる。
幕府が京に戻って以後も度々将軍が朽木を訪れる事があり、作中では主人公が生まれる少し前にも義稙が朽木に滞在していたことから、主人公に「将軍のご落胤」説が出る事になった、としている。

脚注

注釈

出典

外部リンク

  • 淡海乃海 水面が揺れる時 - 小説家になろう
  • 「淡海乃海 水面が揺れる時」特設サイト(TOブックス)
  • web漫画「淡海乃海 水面が揺れる時」(コロナEX)

『淡海乃海 水面が揺れる時 第1巻 (Kindle版)』|感想・レビュー 読書メーター

「淡海乃海 水面が揺れる時」ドラマCD3特設サイト

淡海乃海 水面が揺れる時 1巻~13巻セット 外伝1巻2巻セット メルカリ

淡海乃海 水面が揺れる時 ヨモ(yomo)好きなマンガが見つかるレビューサイト

【送料込/2冊セット】異伝 淡海乃海 2 & 淡海乃海 水面が揺れる時 11 by メルカリ